今や,物理嫌いの時代.入学した四半世紀前も物理嫌いは多数派だっただろう.そんなわけで,
物理部とは物好きだと多数の同級生に思われたかもしれない.昔から物理が好きで,そのまま成長
した私にとって,物理は飯の種.「物事は物理で動いているのですぞ」と説教を垂れたい所だが,
本題に入ろう.
実は,物理部に入ったのはアマチュア無線部だったからである.携帯電話無き時代に,電子工作
大好きな新入生にとって無線は大きな魅力であった.モバイルで海外ともCQ,CQと話せる.正に時
代の先取りである.もっとも,集まったのは進取の気鋭というより,技術オタクの変人ばかりであ
った.しかし,先輩はもっとおかしかった.先輩は秋の学園際にホバークラフトを出品することを
決めていた.これは,エアカー,つまりエンジンで羽を回して浮き上がって進む自動車である.新
入生はホバークラフト製作の手伝いに駆り出された.「無線じゃないじゃん」と思っている内に,
東部伊勢崎線の竹ノ塚駅側の自動車解体屋に連れていかれたり,御苑の通りの鉄鋼所に連れていか
れたり,何だか分からない部活動が始まった.
狛江で見つけたオートバイエンジンを分解して、自転車で運んだころからホバークラフトの制作
は本格化した.場所は,旧体育館,旧校舎に隣接する元武道場である.夏休みを返上しての制作で
あった.踏めば貫ける木の床にホバークラフトの骨組みが組み上がりつつあった.2センチ程度の
角材を骨格に,厚いベニヤ板を貼りつけて作られていくホバークラフト.消音器を外したオートバ
イエンジンが鉄のアングルで固定されていくホバークラフト.噴出し口を覆うスカート代わりに海
水浴で使うようなゴムタイヤを装着されたホバークラフト.先輩達が夢を語りながら組みたててい
くホバークラフト.新入生たちは絶対浮ないと思いながら組みたてるホバークラフト.
鉄と木とタイヤで固まられたエンジン付きのホバークラフトの制作は、学園際当日までずれこん
だ.ガソリンエンジンのパワーをしっかり受けとめる頑健な筐体がようやく完成し,新校舎のピロ
ティに運ばれた.高校生の手作りにしては,なかなかの出来栄えだった.しかし,それだけに浮か
ないという確信を強固にした.なんせ,物理部の末席を汚す身である.物の理から見て重すぎる.
たぶん,作品に愛を感じていないぶん,先輩よりは冷静に考えられた.
いよいよ,試運転である.先輩が,期待に満ちた声で,「かけるぞ」と号令をかける.我々は,
少し離れた所で見守る.レギュレータがバッテリーにつながれた.ブルとレギュレータが回る.し
かし,動かない.点検し,再度起動する.動かない.私は落胆と安心が奇妙に入り混じった解放感
に浸り始めた.少し目をそらす.その時,エンジンの起動音に驚かされた.「かかった!」という
言葉を,動き出したエンジンの轟音が押し潰していく.轟音に包まれ,聴覚が麻痺する.目は膨ら
んだゴムタイヤに釘付けになる.床から浮いたのか,浮かないのか.音は視野をも狭窄していく.
そこに,見知らぬ人が割りこんできた.我に返ると,先輩達に何か言っている.先輩がエンジン
を止めた.しかし,麻痺した耳には言葉が文字らない.静寂を取り戻すに連れ,文句を言われてい
るようだと分かった.「ばかやろー,舞台がめちゃくちゃだ.最前列でも聞こえやしない」と言っ
ているようだった.ピロティの先に体育館があり,そこで演劇を披露していたらしい.消音器をは
ずされたエンジン音は強烈で,体育館もホバークラフトの音に沈んだようだ.
クレームを受け入れて,作品は二度と咆哮を立てることはなかった.「浮いた,浮いた」と喜ん
でいた先輩にも,それを見て押し黙るだけの後輩にも,クレームは都合が良いことであった.その
後,ホバークラフトがどうなったのか記憶にはない.覚えているのは,2m四方のかご型アンテナ
を新校舎の最上部に取り付ける騒ぎである.事務の方と図面をひっくり返し,避雷針の下方に設置
した.京王プラザも出来る前,誰よりも遠くまで新宿の空を味わえた.もっとも,高所の風はキツ
ク,思いっきり震えた.
振り返ると,文化部とはいいながら気持ちは体育会系の先輩たちであった.梅本でご馳走になっ
た立ち食いうどんの味とともに懐かしく思い出す.三無主義に浸った我々は,先輩の熱意を越えら
れなかったという改悟が静かに湧き上がる.引継ぐべき物はコトワリではなく,熱血だったかもし
れない.
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