前回の記念誌でC組の前(川島)さんが、多くのエピソードを語ってくれた。今回F組の橘川(西尾)
さんから電話があって軟式庭球部のことを書くこととなったが、その裏に前さんがいて「荒井君は昔
のことだけは良く覚えている(まるで老人のようだ)」と言ったとか・・・
さて学生のスポーツクラブでの想い出を書くというと、試合の場面を回想するというのがまずは妥
当な線だが、私の場合大した戦績がないということと、軟式テニスは試合の時間が短く0−4のスト
レートで負けた場合は15分ぐらいで終わってしまう。従って記憶に残る一戦というものがない。
そこで合宿のことと、キャプテンをやっていたときのことを二つ紹介したい。
合宿は、富士見高原にて8月上旬に5泊6日で行われた。1年生のときはバスで行ったのだが全行
程一般道であった。バスを降りると、そこはまさに霧が立ちこめる高原で少し肌寒い。東京を離れて
遙か遠いところへ来たという思いと、6日間倒れずに持つのだろうかという不安を持ちつつ合宿生活
に突入した。軟式庭球部の1日の練習は、朝6時に集合し高原の坂道をランニング、それからコート
整備、戻って朝食、午前の練習、昼食、午後の練習(休憩時間に一部の人は頼んでいた牛乳を飲む)、
エールで一日の練習は終わり、夕食、風呂、洗濯、夜のミーティング(素振りのフォームチェックな
どもあり)、部屋の戻ってしばしくつろいだ後10時頃就寝・・・といった具合であった。暑くてし
んどい東京での練習に比べると、日差しは強いものの空気は乾燥していて、何とか長い一日の乗り越
えることができたのだが、今あらためてすごい体力だったと思う。最後の夜はコンパ(もちろんお酒
はなし)で、現役は余興が義務づけられていた。 お開きになり道に出て空を見上げると流れ星、夜
風が日に焼けた肌に気持ちいい。後で知ったのだがその流れ星はペルセウス座の流星群で毎年合宿の
終わり頃が見頃だったらしい。最終日はOBを交えての試合、そしてバスで東京へ。東京へ戻ってか
らさらにカトレアへ。いきなりあれだけの人と荷物を受け入れることが出来るのはさすがマンモス喫
茶。さらにOBは2次会へ・・・
私の場合、高校3年間と大学時代OBとして5年間、富士見高原合宿に参加した。OB時代の方が
長く記憶も鮮明であり、写真も残っているのでついこの間のようである。しかし、記憶の奥のほうで
おぼろげに残っている現役時代の合宿の想い出はとても懐かしく、つたない文章力では表現しきれな
い。 その懐かしさは、人生への不安を持たずテニスだけに集中できた遙か遠い日々のことだからか
もしれない。
さて2年生の時、学園祭で負けた責任をとって辞任? した福島君に代わってキャプテンをやった。
それまで私は、腕時計というものを持っていなかった。高校受験でさえ時計なしであった。キャプ
テンは、その日の練習計画を作成するのだが、部員の数も多く時間も限られているので、たとえば乱
打練習(硬式テニスではストローク?)では使えるコートが1面の日は7分きざみで交代するような
計画になる。
計画通り練習を進めるには腕時計は必須であり、親に訴えて時計を買ってもらった。もしキャプテ
ンになっていなければ、大学受験も時計なしに臨んでいたのではと思う。
さてその練習計画であるが、綿密に作ろうとすると作成に2時間近くを要す。当日の欠席者もある
ので、5時限目と6時限目にまったく授業を聞かずに、懸命に作るのである。
よく先生の発覚しなかったかと思うが、本当はわかっていて見逃していただいていたのかもしれない。
その後再びOBとして合宿のキャプテンとなったときは、次の日の練習計画を立てることとなる。
夜のミーティングの後、他のOBはお酒を飲んでくつろいでいるのだが、一人腹這いになりながら
作業を進める。コートは6面もあり、また男性の先輩から、誰々さん(女子)と乱打をしたいという
リクエストが中途で入ったりして、やはり深夜までかかる。しかし計画通り練習が行われるので、苦
労が報いられる。会社で私が立てた計画は、その通りにいかないのが通例であるが、それでも今度は
うまくいきますように、と新しい計画をたてることができるのは、このときの経験が少しは生きてい
るのかなと思う。
乱文ながらも、記憶の中から二つ選んで書かせていただき、何とか締め切りに間に合わせることが
できた。今は2003年5月24日の朝、10時から2時間テニス(但し硬式)をやって、ビールで
のどを潤した後30周年の同窓会に向かう予定である。次の35周年は、また誰かが軟式庭球部の想
い出を綴ることになるのだろうが、どんな思い出が披露されるのか楽しみである。
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