代表幹事の渡辺康隆君から連絡があり、私が山岳部を代表して原稿を書くことになりました。
当時の思い出と部員の近況を書いてみます。
我々の学年の部員は8名おり、前後の学年と比べると圧倒的に数が多くなっていました。そ
の理由はよくわかりませんが、個性ある仲間に囲まれ、しかも毎月1回の割合で行った山では
一緒に料理を作りテントの中で寝起きを共にしたわけですから、同期の部員が多いというのは
今から振り返ってみると、とても有意義で楽しいことでした。山岳部の活動は衣食住を背負っ
て山にはいることになりますから、何泊もする山歩きになると荷が重くずいぶんつらい思いも
しましたが、過ぎ去ってしまえばなつかしい思い出です。8名全員がひとりも部を去ることな
く続いたのは、自然の素晴らしさに惹かれた面も大きいと思いますが、良き仲間に恵まれたと
いう点も関係しているでしょう。部の顧問は豊澤先生と関先生でした。夏の合宿などでは何日
も一緒に生活するので、教師と生徒の距離も比較的近い部であったといえるでしょう。
在学当時、学園祭に合わせて活動報告書としての部報を毎年作成していました。『あしあと』
という冊子で、昔懐かしいガリ版刷りです。今回この記念イベント用の原稿を書く際に、本棚
の隅にほこりだらけになっているのを取り出して(というか掘り出して)眺めてみました。我々
が1年生だった時に出した部報をみると、山行記録だけでなく詩や短歌、川柳まで書いてあり
ます。「へ〜、こんなこと書いていたのか...」と懐かしいものです。埋め草としてはイラスト
も載っていますが、表紙の絵も興味深い。(当時は漫画家をめざしていた)三木が『星の王子さ
ま』のパロディーとして山岳部員の絵を描いたものが表紙になっています。
部報に載っている部員紹介も、部員の特徴をとらえていておもしろい。その紹介をここにカ
ギカッコ内に再録し、あわせて当時の思い出と私が知っている範囲での近況報告も付け足すこ
ととします。なお再録した部員紹介は上級生が書いたものです。以下、あいうえお順に述べて
いきます。氏名のあとのカッコ内は3年次のクラスを示しています。
小川 裕(H組)「体力的には少し劣るが山ではよくがんばる。トランペットなどを吹くらし
い。」小川の名誉のために加えると、その後体力をつけていき、卒業後は社会人のクラブに属し
岩登りを積極的に行ないました。親が政治家ということもあり卒業後は政治活動もやっていた
と思いますが、今は故郷の岩手で金融機関に勤め、堅実な?生活をしているようです。
高橋 重雄(G組)「あくまでも、マイペースでやっているようだ。男は黙ってといった感じ
で、山では黙々と歩く。」今もそんな感じですね。凝り性のせいか大学でも山岳部にはいり、
黙々と歩いていました。ただ大学卒業後8年余アメリカで生活していたこともあり、少しはしゃ
べるようになりました。現在は大学の教員として、大教室の講義科目では授業中一人でしゃべ
りまくっています。
永見 章(D組)「合宿前の練習中のちょっとした交通事故で足をねんざしたため、合宿に行
けず皆を心配させた。だんだん実力をつけてくるだろう。」部の活動として新宿御苑の周りなど
を走っていましたが、1年生の夏合宿前、確か千駄ヶ谷駅周辺で車に接触したことがあったっ
け。1回転くらいするハデなアクシデントだったと記憶しているが、その割には捻挫程度です
んでよかった。ただ合宿の北アルプスでは新入生として北アルプスの素晴らしさを味わえたの
で、行けなかったのは残念でしょう。今は中学校の教頭先生です。(もしかしたらすでに校長?)
現在は夫婦で登山をし、海外の山まで行く模範的な山岳部卒業生。
西垣 晋一(B組)「中学生のときマラソンをやっていたので、練習のときなどは短パンをは
いて井坂(当時の上級生)とともにいきがっている。チビのくせにタフだ。コノヤロー。」山で
もタフで、皆が苦しそうに歩いているのに、一人涼しい顔をしていたような印象があります。
単に誤った印象なのか、はたまた苦しさを表に出さないというできた人間だったのか?日本で
就職したが今はニューヨークに派遣されて仕事をしているはずです。在米7年目くらい?
間 賢介(E組)「山岳部を一回やめてラグビー部に入ったが、その練習に耐えかねてふたた
びわが部にしらじらしく戻ってきた。中学のときからの山好き。」これも間の名誉のため説明を
加えると、彼の体力は山岳部では抜群でした。ラグビー部で続くのは、人並みはずれた体力の
持ち主なのでしょう。彼も仕事で早くから南カリフォルニアへ派遣され、ロサンゼルス近郊に
十数年住みエンジニアとして活躍していました。私(高橋)も1997年の夏から1年間ロサン
ゼルス近郊にすむ機会があり、その時に一度、高校卒業後初めて彼に会う機会がありましたが、
その後体調を崩したようで、2000年9月に、闘病の末残念ながら永眠しました。彼の墓は八
王子市にあります。緑豊かで山も近い東京霊園です。
福田 宏(A組)「体つきは縦に長くて山向きではないが、持久力はある。一年生で一番のひ
ょうきん者で態度がデカイ。まさに口から生まれてきたような奴だが、どういうわけかバイオ
リンなどをやるらしい。好物は石油。」この石油事件は、新入生の頃、奥多摩でキャンプした
際に、夜中に寝ぼけて水と間違って料理用コンロに使う灯油を飲んだエピソードを指していま
す。「この水、石油くさいな」と言ったと伝えられていますが、さすがの福田も翌朝は体調優
れず、山へ向かう我々と別れ一人帰路につきました。間とともに話の盛上げ役であった。ラー
メン店で働いていることがわかり、2年ほど前に本厚木の店に食べに行ってみたら、昔と変わら
ない雰囲気で仕事をしていました。バイオリンは続けてる?
三木 悟(F組)「いつもきまって山で写生しているので有名。結構しっかり家だ。合宿では
眼鏡をなくして、槍の頂上であわてふためいた。」新宿高校卒業後は大学へいく道をあえて選ば
ず、それこそマイペースで絵を描いたり小説を書いたりして、そのうちインドに行ったそうだ
が、その影響か今は寺の住職となっています。1995年の同期会の名簿にあったコメントで住職
になったことを知り、その後2回ほど三木の寺で山岳部同期の集いを開きました。前に会った
時に、寺を建て替えると言っていたが、その後どうなった?
美野輪 治(E組)「非常につかみどころのない男だ。はじめの頃は呼んでも答えず、注意し
ても無視され、山では食事のことしか興味を示さない。だがこの頃は一人前になまいきな口を
きく。」彼も卒業頃にはずいぶんひょうきんなことを言う人間になっていました。しかも、まじ
め(そう)な雰囲気とのミスマッチが何ともいえない。彼も凝り性のようで、高校卒業後は大
学の山岳部に入り、北海道の山を歩きまわったようだ。北海道の山は道があまりないので、昔
の山登りで必要とされた探検的素養が備わったことでしょう。大学卒業後のことはよくわから
ないが、三木の寺で会った時には科学者になっていました。研究所勤めだそうです。確かバイ
オサイエンスの分野だったと思う。白髪も増えて貫禄がでていました。(かくいう私も白髪の
点は同様。)
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