『朝陽時報』の発行は、新聞研究部の仕事だと皆さん思っていらっしゃると存じますが、実は
新聞委員会が発行人となっていました。というのも新聞発行には学校の予算を使うためで(部活
の費用ではケタ違いに多額になる)、放送委員会も放送研究部の仕事ですが機器の購入やメンテ
に費用がかかるため、放送委員会としていた訳です。文化委員会、轍委員会もしかりです。
ですから新聞研究部に部長がおり、新聞委員会には委員長がいました。当時の委員長はH組・井上
一幸君ですが、24日の30周年の集まりで本稿の執筆を断られたため、一筆啓上いたします。
今回の記念CDにも当時の『朝陽時報』を載せましたが、確か発行部数は全校生徒数より多めの
1,500部程度印刷してもらっていました。印刷所は代々木の「あかつき印刷」という日本共
産党本部の中にある印刷会社で、そこは戸山高校新聞部も利用していました。
私事ですが現在、印刷業界に身をおいているため、あかつき印刷の人と会う事があり、「30
年前には校正室によく行きましたヨ」というと先方も懐かしそうに、「当時は未だ活版印刷だった」
「70年代以降は、高校新聞も力がなくなっていったネ」と言われたこともあります。
さて、『朝陽時報』の発行は予定では年間4回程度。(昭和30年には年間8回という輝かしい
記録のあったようです。)新聞作りは、まず企画会議・取材・記事書き・レイアウト・印刷会社へ
持ち込み、校正、刷り上った新聞の各クラスへの配布という段取りでした。校正では最終ゲラ出し
が9時を過ぎることもあり、帰宅が11時ということもあったように記憶しています。思い出は
「先輩訪問」の記事で5月24日の新宿高校80周年記念行事を飾って戴いた作曲家・池辺晋一郎
さん(新15回)のご自宅にお邪魔して取材させて戴いたことでしょうか。(当時は繊細な人だなぁ
という印象で、こんなスゴイ人になる方とは32年前には思わなかった!)
新研は他に、「週刊新宿」(まったくの不定期ガリ版)、「戸山戦速報」(年1回、戸山高校新
聞部と共同発行)等を出していました。顧問は国語科の前中先生、「もっと考えて書け」と言われ
たこともありました。(確か当時は記事の「検閲」をめぐって1年先輩諸氏が生徒会役員と議論し
ていたのを覚えています。)
先輩諸氏からは原稿用紙の使い方(『朝陽時報』は行頭1字下げをしない)、校正の基本からモノ
の見方・考え方まで教えて貰ったことが、その後の生き方を決めてもらったようにも思えます。
委員会メンバーは新研部員とイコールで、井上、武居、有沢、上原、紅一点・武安さん、ただし
卒業アルバムの撮影では「友人たち」が賑わせてくれています。
ただ、我々の反省すべき最大の欠点は、後輩諸君の面倒を見られず、発行体制が崩れていってし
まったことでしょう。その後、10数年経って「200号記念」を現役と先輩諸氏で共同制作され
ましたが、最近の高校生にとって「学校新聞」を作る意欲が乏しくなっているのでしょうか?
マスコミ志望の大学生は多いのに、高校では難しいのかもしれませんね。我々のころの企画会議でも、
「無理して活字を埋める位なら、主張はないんだから、いっそ白紙で出したら」という発言まで飛
び出し、小生真っ青になったこともありました。とはいっても、生意気に何やら書かせてもらった
こと、仲間や先輩と議論をしたり、「取材」と称して織田校長先生とお話する機会を持たせても
らったり、自由に校内を歩きまわり他のクラスを覗いたり、戸山の新聞部と仲良くなったり、 高校
新聞コンクールに入賞? したり、なんとなく楽しい新聞作りだったように思い出されます。
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