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あれから30年、
みんなどんな蝶ちょになったの

B組 竹迫(野田) 和美

      高校三年生の息子から、学校の3階の窓から生徒が落ちて複雑骨折したと聞いた。単なる事故で
    はなかったとのこと。思わず尋ねた、「またどうしてその子そんなことしたの?」「授業つまらな
    いし、サボろうとして落ちたらしいよ。よくあることさ。今まで誰も怪我をしなかったことのほうが、
    不思議だよ」「まさか君もしたことがあるの?」「へへへ、俺はもっと低い階からね」「ちょっと
    やめてよね。第一危ないでしょう?骨折だけじゃ済まないかもしれないのよ。・・・・・・」と息
    子を咎めながら、妙にくすぐったい思いがこみ上げてきた。  
      30数年前、私自身も体育館裏手の塀を乗り越えて、脱走をしたことがあったのをふと思い出し
    たから。多分1−2年生のころだったと思う。誰が言い出したのか覚えてはいないけれど、自習か
    何かのときにクラスの女子5−6人が一緒に塀を乗り越えてみた。理由などはない。ただ一度やっ
    てみたかっただけ。私はお転婆なほうだったから、飛び上がりよじ登りぶら下がったら、学校から
    の高さに比べて、御苑側はとても高くて、3メートル以上あったろうか、ともかく何とか着地でき
    た。  
      スカートがパラシュートになった人もいたし、お尻からドスンと落ちた人もいた、スカートが傘
    のおちょこ状態で半泣きの人もいた。振り返ったら、校舎の窓から私たちに手を振る人たちがいた。
      新宿御苑への抜け道は半ば黙認だったのか、授業中、外を問わず超えていく姿を教室の窓から見
    るのは日常茶飯事だった。塀の下には穴が開いていて、用務員さんが何度塞いでもいつの間にかま
    た開けてしまう。先生方も知らないわけはなかったと思うけれど、だからどうだということはなく、
    もちろんそんなことを問題視することもなかった。そういう時代だったのかもしれない。
      ちなみに昨日母校に電話して、「今でも塀に穴がありますか、生徒たちは塀を越えたり、逃げ出
    したりはしませんか?」と尋ねたら、「そういうことは全くありませんし、穴もありません」と冷
    たく言われてしまった。今のような世の中では、たとえ事実があってもそんなこと公表できないの
    かもしれない。だた、穴などはもうありませんと言われたとき、なんとなくさびしかった。
      そして、当時いっしょに塀を越えたクラスメートに会ってみたいという懐かしさがこみ上げてき
    た。明日みんなに会えるのがすごく 楽 し み。
      卒業して30年、正直言って高校時代の記憶は霞の中で多くは覚えていない。試しに友人たちに
    尋ねても、皆異口同音にそれぞれのクラスが何組だったのか、たとえば1−2年次は何組で担任は
    誰で、クラスのメンバーは誰だったかといったことでさえ、ほとんど覚えていない。私の場合は、
    高校の三年間は人生の中でもっとも本来の私と異質な人格で、暗く自分の殻に閉じこもってしまい、
    生きることが重責とさえ思えたし、まるで悩みのデパートのようだった。雨の中傘もささずに私が
    一人で歩く姿を何度も見かけた、とクラス会で友人に言われた。思い返してみると、多分自分探し
    をしていたのではないかと思う。そう言えば、初恋もしたし、その人のことが四六時中頭から離れ
    ずに、食事さえ喉を通らなくなったこともあったし、また、他人からどういう目で見られているか
    が妙に気になり、学校での居場所がないような気がして、登校への足は重かった、ただし、家でも
    あまり居心地が良くなくて登校拒否できなかったので、結果的に学校には通った。
      大学以後社会に対しても、自分に対しても、大胆に行動できた自分とはどうしても結びつかない
    けれど、新宿高校での空白の時間の中で、まるで蛹のように、きっと私という人間が出来上がって、
    今の自分につながってきたのだろう。その事実を、30年後同じ年齢に成長する息子たちを通じて、
    再認識せざるを得ない。息子の学校で喫煙が発覚したと知れば、母親としての自分はすぐに問題視
    してしまうけれど、自分たちを振り返ってみると、新宿高校の朋友たちで、喫煙をしていた男子生
    徒は何人もいたし、新宿あたりで、お酒を飲んでいた人も一人二人ではなかった。だからといって
    誰一人アルコール中毒になったとは思えない。先生たちもうすうす気がついていたのかもしれない
    けれど、私たちの突拍子のない行動を成長の過程として見守ってくれたのか、それともあれだけ多
    数の生徒たち一人一人に目をかけきれなかったのか、ともかくお咎めなしで、卒業して、私たちは
    それなりに社会人として、りっぱに生きているのだと思う。
    
      あれから30年、高校生の息子たちを前にかれらの奇怪な行動や言動に対し、いちいち動揺しが
    ちな今日この頃の私だけれど、実はかく申す私とて、その当時は両親のみならず先生方にも、それ
    なりに心配をかけた存在であったこと、そして、にもかかわらず、「娘は大丈夫」、「野田はそれ
    なりになんとか大丈夫」・・・と周囲には見守ってもらい、誰にも干渉されずに、好き勝手な蛹で
    いられたことを感謝しつつ、息子たちに対し、見ざる言わざる聞かざるを・・・心がけねばと思う。
      そして、近くで見守ってくれたクラスメートや友人たちにも感謝している。「ノン(当時の愛称)、
    野田さんは、雨の中、傘も差さずに一人で歩いていたし、どこか暗い影があったから、この先大丈
    夫かしら、このままどうかならないか心配だった」と、卒業してクラス会などで多数の人に言われ
    た。  
      元気一杯の私、という現在の自分の評価とは全く異質な自分でいたころ、つまり蛹時代にそばで
    かばってくれ、私と共に人生の一部を共有してくれた皆さんに心から感謝しつつ、明日の30周年
    記念の集まりに参加したいと思う。
      みんな蛹からどんな蝶ちょになったの? この30周年を企画、実行してくれた皆さんにも心か
    ら感謝しています。
      皆さんのお力とご苦労がなかったら、こうして、また会うことは不可能だったから。ご苦労様で
    した。そしてありがとう。                      (2003.5.23)