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図書館

F組 新 誠一

     高校が在った新宿は怪しい所だった.高校も旧校舎を筆頭に怪しい場所が沢山あった.その中で
    健全に怪しかった所が準備室である.地学も美術も社会も理科も個性的な先生が陣取り,気が弱い
    学生は入室するにもためらいを感じた.その中でも学生の目に触れやすい怪しい場所が図書館であ
    る.「図書室ではなく,図書館.独立性が違う.」と説教をしてくれたのは大先こと佐元光子先生で
    ある.大先が君臨していた図書館内の金魚鉢と呼ばれるガラス張りの空間は,部活,クラスと並ぶ
    私の高校生活の柱の一つだった.
     図書館との縁は1年生の時,クラスで図書委員に推挙されたことから始まった.本が好きで調子
    が良い自分にとって,貸し出しを行うカウンター係は向いていた.その他,角川書店から原稿を借
    りて展示したり,貸し出し統計を作ったりと,いろいろな仕事を経験させられた.大先には,仕事
    に段取りがあることを厳しく教えてもらった.右に置くか,左に置くかという些細なことが全体の
    能率に大きく響くことを体感できたことは,大きなプラスだった.また,行事係りとして読書会を
    担当した.この時,司会の才があることを最初に見出してくれたのも大先であった.良いことばか
    りではなく,夏休みに行われた蔵書点検では菓子を食べ過ぎた.腹をこわし,翌日はお休みという
    事件を起こした.結局,5kg以上も痩せ細った.
     これらの功績からか,2年になったら図書委員長という声もあった.しかし,新しいクラスでは
    図書委員に推挙されなかった.三無主義に浸っていた私が,立候補しなかったせいである.そんな
    訳で,B組の森山朝子嬢が委員長に就任した.今でも,私のせいで委員長になったと森山嬢には愚
    痴をこぼされるが,大先に渡りあえる実力,人格を持っていたのは彼女だけだった.
     委員は首になったが,図書館には相変わらず入り浸たった.これは,昼食時に茶が欲しかったこ
    とが一因である.高校時代の昼食は弁当かパンの購入であるが,昼食時にお茶が飲めるということ
    は図書委員の特権であった.もっとも,大先は茶の作法にうるさく,いい加減にいれると叱責をも
    らうはめになる.実は,図書委員でなくても大先を慕っていれば,出入り自由というのが金魚鉢で
    あった.同期では,図書委員の経験が無いD組の小林隆治君,F組の巣山廣美君,そして同じくF
    組の杉田健一君が時々という感じで金魚鉢に出入りしていた.
     もちろん,同期だけでなく,先輩にOBまでが出入りしていた.大先が大先だったので,集まっ
    た人々は集まった人々であった.「類は友を呼ぶ」か「朱に交われば赤くなる」かは判然としない
    が,その中で人生勉強をさせてもらったとともに,ある種の居心地の良さを感じていた.
     大先との付き合いが深まったのは,卒業後である.堅実な森山嬢は現役入学したが,残りの常連
    は浪人生活が始まった.青春時代の真中に空いた中途半端な時間を図書館で埋めた.気が付けば,
    私も「変なOB」ど真中へと出世したことになる.落窪物語はソープオペラだと気付いた頃から,
    高校時代つまらなかった古典が面白くなり,足繁く図書館にかよった.枕草子,大鏡,増鏡,徒然
    草,好色五人女,あげくは曽我兄弟の仇討ちまで手を広げ,当るを幸いに読み漁った.最後は,司
    書の更谷さんにあきれられてしまった.
     OBとなると大先も付き合い易いようで,更谷さんも含め常連どもと一緒にご馳走になったこと
    も再々であった.その関係は,大学に入学後も変わらなかった.常連達が,そのまま遊び友達にな
    っていたことも大先との関係が続いた一因だったのだろう.図書館に来たついでに,職員室や他の
    準備室に挨拶にいくこともあり,新宿高校の卒業生という強い自覚を持っていた.
     社会人になっても変わらなかった図書館通いは、大先の転出とともに終わった.転出は,東京都
    が定期的に先生を移動させるように方針を変えたためだ、と聞いている.訪ねても知り合いがいな
    い高校には誰もいかない.また,大先の新しい赴任地も私の高校ではない.常連達とは,宴会をし
    たり,スキーにいったり,テニスをしたりと青春を謳歌していたが,次第に結婚するものがでてき
    た.子供も一緒に旅行に出ることもあったが,一人身の頃のような頻繁な関係ではなくなった.気
    が付けば,大先とも年賀状だけの関係となっていた.もっとも,私が近況を一方的に送るだけの関
    係であった.大先からの年賀状は来なかった.実は,大先の年賀状を在学中に一度見せてもらった
    ことがある.大先によれば,「それは芸術作品であり,忙しいときは作成されない.」とのことで
    あった.たぶん,私の卒業後は作成されずに年月を重ねてきたのだろう.
     5,6年前,すなわち卒業して25年ほど経った頃,大先と再会した.勤務先の近くの根津の交
    差点で特徴のあるご尊顔を拝した.定年後,近くの上野高校の図書館で嘱託をされているとのこと
    であった.宴会に行く途上だったため言葉を交わした程度だったので,日を改めて上野高校図書館
    に挨拶に出かけた.ここの金魚鉢にはOBも学生もいなかったが,新宿高校の金魚鉢と共通の雰囲
    気に包まれていた.その日,初めて大先にご馳走させて頂いた.遅すぎる恩返しである.
     今年,初めて大先から年賀状を頂戴した.たぶん,嘱託も終えられて芸術に投じる時間が出来た
    のだろうと思う.また,お会いしたいと思いながら,初めて会った頃の大先の年を越えた身はおっ
    くうがるばかりである.この拙文を持参して,叱られるのも一興かもしれない.朝子さん,隆治,
    巣山,玄白,大先を囲む会でもしませんか?