何で今この原稿用紙に向かわなければいけないのか。小学生のころから国語が大嫌いで、勿論、
国語の成績はその当時から最悪であった。
小学校に入る前に、母親が数十冊からなる文学全集のようなものを買ってくれたが、いったい何冊
読んだのか、全く記憶にない。
というのも、当時から理工系の趣味に目覚めてしまったからである。
小遣いは全部プラモデルに使ってしまった。当時、1/72縮尺の飛行機プラモデルの価格はわ
ずか百円(勿論、当時は税無し)であったが、毎日一個買っていた。家には、模型店と同じ位の在
庫があり、その中から毎日一つ作っていた。
わずか百円のプラモデルではあるが、普通の人とは製作工程が全く違っていた。まず、各パーツの
バリ取りから始まる。接着剤も、製品に付属のものではなく、液状のものを使い、塗料も50色以
上を常時もち、しかもそれを調合して目的の色を作った。この調合は、減算混合であるが、後に社
会人としてテレビの技術者をしたときに色の調整(加算混合)の時に大変参考になったと思う。
当時、まだ小学生だった私にとって1万円以上もしたエアガンは高値の花であった。そのため、筆
を使ってスプレーしたのと同じように綺麗に塗装するのが大変であった。塗料をシンナーで薄め、
何回にも渡って塗装をした。特に私は複葉機のプラモデルが好きであった。製品には、複葉機の翼
を補強するトラスは部品として含まれていなかったが、余ったブラスチック部品からその部品を熱
加工して作り出し、写真を見ながら百本近いトラス(補強用の張り)を取り付けた。こんなことを
やっていると、わずか百円のプラモデルだが、製作時間は丸二日から三日かかってしまった。
中学時代は、エレクトロニクスに目覚めてしまい、しょっちゅう秋葉原に通うことが始まってし
まった。2SAだの2SBという(ゲルマニウムであることを示す)型番で始まるトランジスタや
ら、抵抗、コンデンサーを沢山買い捲った。気が付くと、電子部品の大きな棚が出来上がっていた。
こんな仕事?をしていると、とても国語には全く興味が持てない。文学作品を読む代わりに、「CQ
ハムラジオ」、「電波と科学」、「トランジスタ技術」といった本を読みあさっていた。当然中学
時代の国語の成績は眼を塞ぎたくなるようなものであった。
何だか知らないが、母親は私のことを戸山か新宿に入れたがっていた。しかし、当時の国語の成
績では全く望み薄であった。
やるときはやる。それが私のポリシーである。それから、国語の猛勉強をし、国語の入試の点数は
90点を超えていたと思う。勿論、数学と英語はそれ以上の点数を取っていたと思うのだが、もしそ
の時のテスト用紙か成績が残っているものなら見てみたいものだ。
今日、代表幹事の渡辺康隆君の原稿を読んだが、彼もひょんなめぐりあわせで代表幹事になった
ようである。かくなる私も、新宿高校の幹事とは縁遠いものであった。
確か、1975年前後に幹事会があり幹事に任命されていたと思うが、その当時はテレビのエンジニア
の仕事で一年の1/3位は海外に出ており、生憎そのときも確か沢田研二さんの香港公演の仕事で
海外にいたために、クラス会の幹事の仕事をすっぽかしてしまった。
どのような経緯で引き受けてしまったかははっきり覚えていないが、1987年4月14日の澤正雄先
生退官記念授業のビデオ撮影をお引き受けすることとなった。
澤先生の思い出は次回(35周年記念)の時にお話したいと思うが、とにかくこのときは澤先生の記
録を撮っておかなければという気持ちで一杯であった。今、思えば、よくこの時代にビデオ撮影を
していたものだと、我ながら感心している次第である。
実はその時、久々に豊澤先生にお会いした。何を隠そう、豊澤先生は1Hの時の担任であった。
好き嫌いの激しい私は、1年の1学期の時の成績は2であった。全くといって良いほど、勉強をし
ていなかったのが原因である。さすがに担任の科目で2はまずいと思い、その後は猛勉強をし、満
点に近い点数を取ったが、「さすがに一学期の成績が2では、5は上げられない」と豊澤先生に言
われたのを今でもはっきりと覚えている。でも、それが私である。嫌いなものは、全くやらない。
やるときはやるである。
おそらく、そのことを豊澤先生も覚えていたのではないかと思う。その後、豊澤先生より連絡が
あり、朝陽同窓会のコンピュータ導入、名簿管理のことの相談を頂いた。
当時、朝陽同窓会の名簿はDBASEで管理されていた。その当時(約15年前)は、一番メジャー
なデータペースであったが、時代は経過し、MICROSOFT Accessに移植することになった。そん
な時に巡り会ったのが、渡辺康隆君である。
彼は、律儀にも朝陽同窓会の会費を毎年持参していた。おそらく今でもそうだと思う。まとめて
払えば安いのに。振り込めば楽なのに・・・。でも、彼の考え方は違っていた。足を運ぶことによ
り、朝陽同窓会と親密な関係を保つという考えがあったのだろう。おそらく、生涯代表幹事の辞令
を自ら発令したあとの行動であろう。
多分、そのときに土橋という存在を知ったのだと思う。意外なことに、高校在学当時は、彼との接
点は全くといって良い程なかった。でも、何かと特徴のある彼の顔ははっきりと覚えていた。
そんな渡辺康隆君から連絡があったのは、2001年も暮れのことである。再来年に30周年記念パー
ティーがあり、Project30と言うプロジェクトが立ち上がるので、是非とも参加して欲しいという依
頼であった。特に私に対しての要望は、ホームページの立ち上げ等のコンピュータに関する依頼で
あった。勿論、断る理由は無く、快くお引き受けすることとなった。しかし、今にしてみると、
22回の時は、何故か私は参加さえもしていなかった。それが、Project30では、中核の仕事の一部
を担っている。何という巡り合わせであろうか。
Project30の第一回幹事会は、2001年12月15日に新宿高島屋タイムズスクウェア12F「ツチ・バ
ヌーチ」(イタ飯屋)で開催された。そのときに、できる限り早急にホームページを立ち上げるとい
うことが決定された。すぐさま、ホスティングの会社を調査し、2002年の1月早々、chouyou25.jp
のドメインを立ち上げることとなった。
次に、メーリングリスト(以後、ML)の立ち上げてある。新25回の同窓生は300人は超える。
通常のMLでは、数十人しか対応していない。100人を超えるものは、月々の金額も1万円を覚悟
しなければならない。しかし、NPOである同窓会は、そのような高額な費用はかけられない。色々
と調査したところ、egroupsを発見した。当初は、リクルートが運営していたが、途中から
運営はYahooに替わった。これならば、渡辺君の目指す全員集合となっても大丈夫。しかも、
費用は無料である。メールを送る度に、最後に宣伝が追加されてしまうが、これだけのシステムを
費用無しで使えるので我慢して欲しい。
Project30の目玉として、CD−ROMを作ろう。これは、代表幹事である渡辺康隆君の発案で
ある。制作する立場からすると、このような無謀な提案はまずしたくない。
CD−ROMは、650MBないしは700MBの情報を保存できる。1MBで、2,048枚分の原稿用紙
(20×20字詰め)の情報を保存できる。つまり、700MBだと何と1,433,600枚分の情報量であ
る。とんでもない情報量である。しかし、小冊子と違い、CD−ROMはマルチメディア対応のメ
ディアであるため、文字情報の他に、静止画像データのみならず、動画像も保存することができる。
しかし、テレビ放送のような画像をそのままCD−ROMに記録すると、全く圧縮しないと1フレ
ーム(画面)で約1MB、1秒で30MBも必要としてしまう。となると、700MBもあるCD−R
OMも、僅か23秒の動画しか保存できないことになってしまう。この長さでは、事実上充分な長
さのビデオの収録が不可能である。そこで、高圧縮画像を調査した。DVDビデオに採用されてい
る圧縮画像フォーマットはMPEG2である。しかし、この圧縮方式だと、700MBでは僅か17分
ちょっとしかビデオが収録できない。これでは、やはりProject30の動画像を収録するには充分な
長さとは言えない。
ご存知のように、最近ではブロードバンドを使ってテレビ番組や、様様なビデオ画像を見ることが
できる。これらでは、MPEG4といわれるインターネット動画像用のMPEG2より更に高圧縮
な方式が採用されている。しかし、MPEG4そのものでエンコーディング(符号化、圧縮化する
こと)されているものは、殆どない。Quick Time、Real Player、Media Player等が有名であるが、
その中でもMicrosoft Windowsに標準で装備されているMedia PlayerのWMVという方式を採用
することにした。
テストしたところ、この方式であれば、非圧縮の場合、1分当たり1800MB必要であったものが、
1分当たり僅か約1.5MBに圧縮が可能である。(384Kbpsの場合)驚くことに、何と1200分の
1の圧縮である。音声においてもMP3のような高圧縮が行われている。これならば、700MBの
CD−ROMWで、460分、8時間近くの動画像を記録することができる。Project30の記録方法と
しては、もう、充分過ぎるものである。
しかし、ここで困った問題がある。8時間の作品をエンコードするのに、その約倍の時間がかかる。
また、1時間のビデオを編集するには、その数十倍の時間がかかる。(テレビ番組のように本格的な
編集をした場合)果たして、そんなに時間をかける余裕があるだろうか。
問題はそれだけではない。30数年前の新聞、小冊子等も全部電子データ化しようということにな
った。昭和45年入学のときに貰った「教科選択の手引」、「学校要覧」だけでも各24ページもある。
「轍」という小冊子一冊だけでも、各々40ページを超える。これらを高解像度でスキャンして、見
やすいようにPDF化する作業は、とんでもなく大変な作業である。幸い、この作業は久保田兼士
君が献身的に対応してくれた。
当初、CD−ROMは予算的にも700MBのCD−ROM一枚にしようと予定していた。しかし、
パーティーの写真とビデオを収録する前の時点で、容量が500MBを超えてしまい、500カット近
く集まるであろう当日の写真と、3時間以上のビデオ素材をCD−ROMに収録することは、誰が
見ても全く不可能になってきてしまった。幸いにも、参加者は140名を越え、予算的にも少し余裕
が出たので、CD−ROMは二枚構成(1枚目は、原稿と写真、2枚目は動画)とすることがつい
先日決定した。
この調子だと、35周年の記録メディアは、4.7GBのDVD−ROMか、23GB収録できる
Blue-Ray Discにでもしないと追いつかない。
話は前後するが、膨大な写真を皆から集めるために、私の会社(株式会社アークブレイン)に、
Projcet30専用の80GB FTPサーバーを立ち上げた。これで充分かと思ったが、実は充分ではな
かった。DVテープから動画画像(AVI形式)を含めると、何と素材は150GBを超えてしまっ
た。FTPサーバーには、静止画と、完成ファイルを保存してあるが、それでも6GBにもなって
しまっている。このような容量をレンタルサーバーで借りたら、月10万円では済まない。とうと
う、この原稿も提出期限の2003年6月7日ギリギリの執筆となってしまった。
でも、これで終わりではない。これから、5月24日以降に集まった原稿、写真、ビデオの編集作業
がある。7月5日の発送に向けて、何とかCD−ROMのマスターを6月20日(あと、二週間しか
ない)までに完成させなければいけない。CD−ROMを作った同窓会なんて聞いたことが無い。
しかも、今回は二枚組みである。これを受け取った同窓生の喜ぶ顔を想像しながら、最後のラスト
スパートの真っ最中である。
|