新宿高校の3年間は、多くの仲間が語るように単なる思い出というよりは、大袈裟ではあるが、
その後のそれぞれの生き方にそれぞれなりに影響を与え、原点ともいうべき時と空間であった。思
い返しても多彩な色を描き殴っていたようである。それは、三無主義と言いながら、皆が第2次ギ
ャングエイジの到来のように自由に飛び跳ね、多様な活動と人間模様を身近に見、また、校内行事
も多く、黒ヘルを片手にデモに行く前にクラス対抗女子バレーの応援もし、権兵衛委員会で花壇に
チューリップも植えるというものであった。ぜんまいが弾ければ、それなりにツケは回ってくるも
ので、各々赤面する失敗をし、挫折もあり、しかし、否応なしにそこから学ぶものがあり、今思え
ば充実感もあった。結局は、この高校という場は、しっかりと長い目で我々を見守り、受け止めて
いてくれたように思う。
相変わらず青二才のようだとか、一時の青春時代の血気盛んな若気の至りと言われてしまうかも
しれない。事実、短絡的なイデオロギーで傷つけた面もあったかもしれないので、批判は免れない
が、しかし、ベトナム戦争への反戦、相模原補給廠戦車運搬阻止、沖縄返還問題での歴史の学びな
どは、若気の至りではなく、いまなお考えさせられる、耳を澄まし、目を凝らし見つめなければな
らないことがらを投げ掛けてくれたと思っている。勉学とは違う沖縄の歴史勉強会などは随分熱心
に図書館へ直行し、行ったことが思い出される。
1995年、ベトナムへ戦争で家族を無くした独居老人への支援ボランティアにも行き、米国旅
行者が今なら勝てるという言説に接し、相変わらず反省しない、強者の論理しかないなと思ったも
のである。他国のことも言っていられないが。2001年3月には仕事でパレスチナにも行き、マ
スメディアからの情報と現場との違いを思い知らされた。直接的な暴力の対峙は、常に暴力の連鎖、
さらに憎しみの連鎖となることを知る一方、知らされない、報道されない構造的な暴力もあること
を知った。国連の援助なしには餓死する村もある。封鎖されたガザの現状などである。やるせない
青年の目を見て、自爆はしないで欲しいと思うものの何か怖さも感じた。それが、9.11に繋が
る予感であったかもしれない。
9.11以後、先輩である坂本龍一らが「非戦」という70編あまりのメッセージ集を間髪を置
かず刊行した。彼も新宿高校であの時代を過ごした者であり、その時向かいあったことの一糸が綿々
と繋がってきているのかもしれないと思わされた。改めて、70年代より、豊かさは増しているが、
今さらに状況は悪化、深刻化しているのではないか。高校時代の旧交を温め、つながりに接する時、
漫然と充たされた生活に浸りながらも、私自身私なりの一筋の糸を意識せざるを得なく、我が身を
振り返るものである。
生徒会関連では、バイパス新宿御苑壁沿い建設反対があり、夏休みに地域住民へのアンケートを
したり、定時制高校との交流、戸山戦後夜祭実施、「轍」発行。学力テスト復活か否かの寒い体育館
での議論など、よくもまあ3年間に詰まっていたなと思わされる。確か「新宿高校ベ平連」の旗を
持っていたはずと、腰に手をやりつつ思う今日この頃である。
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