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「顧 盼(こはん)の間」

F組 加藤 志貴雄
( 昭和46年度前期会長 )

      人の記憶とは、60才位になると、突然くっきりと思い返すことが多いと聞く。つまり、後10
    年程経つと、これから書こうとしている生徒会活動のことも、もっと明確になるのだろうが、それ
    まで依頼者が待ってくれるはずもなく、そのとき書けるのかさえ分からない。まずは、「その程度の
    もの」と皆さんに納得していただいた上で、書き始めることにしたい。
      さて、今年の桜はみごとな咲きぶりだったが、去年のように早く咲かれては、みも蓋もない。しか
    し、東京の桜はずいぶん白くなったように感じる。私たちが入学した
    1970(昭和45)年4月の新宿御苑に咲いた桜の色は、どうだったのだろう。
    新宿高校に入学した経緯は各人各様だが、入学前年に起きた「東大安田講堂事件」や「全共闘活
    動」「ベトナム反戦デモ」といった社会的同時代的な「うねり」というものが、私の社会意識に少な
    からず影響していたことは、事実だと思う。
      実際、私の中学3年時では、あるクラスメイト(この方も新宿に進んだ)の提案により、それま
    で全員が参加してきた区主催の某陸上大会に、今年は全員で参加するか否かをホームルームで議論
    したことがあった。
      私自身も背伸びしていた時期のようで、部活動の合間に『世界』や『中央公論』『朝日ジャーナル』
    を読んでいたし、そうした政治や外交・文化といった領域に対する関心を、今もなお少しく持ち続
    けているということは、そうしたことが影響してきたという「証」ではないかとも思う。
      なお、その年の「アメリカ・アカデミー作品賞」は、ベトナム戦争が与えたアメリカ国民の病理
    現象を描く「真夜中のカウボーイ」であったことも、象徴的である。
      このように、最も「多感」といわれる年代に起きた、自らのまたは周辺の出来事や読みあさった
    書籍が、その後の人生に影響を与えるという説に沿うならば、私もこうした時代の空気や事柄に影
    響を受けながら、高校時代を過ごしたことになる。
      確か、旧校舎の講堂で入学式を済ませた後、今にも壊れそうな廊下を渡り、初めてクラスメイト
    に会ったが、自分より勉学に秀でた方たちがそこにいた。そのとき、果たしてこの中でやっていけ
    るのだろうかと、一瞬不安に思ったが、席を同じくする皆さんと次第に会話を交わす内に、実は同
    じ思いを抱いていた方が多く、内心ほっとしたことを思い出す。
      では、そうした普通の生徒が、2年になってなぜ生徒会活動に参加することになったのか−それ
    は、私の持って生まれた性格に加えて、当時の学風が引き起こしたものである。そのきっかけは、
    当時立候補した3つのメンバーの中にいた前会長の「主張」と「公約」である。
      つまり、その方の「公約」とは、「当選しても俺は何もしないよ」という「主張」であり、それを
    御旗に掲げ、多数の賛同を得ようとするその意識と行為に、強い違和感を直感的に抱いたのである。
      また、そうした主張を前回認めた比較多数の在校生諸君ならびにそのような雰囲気を醸成した学
    風に対しても、「どうも自分の肌に合わない」とも感じ、それが「誰か一度反論しておくべきではな
    いか」と思うに至ったわけである。もちろん、出る以上、後で触れる継続課題と称されていた「自治
    問題」についても、当然自論を有していた。
      しかし、最初から「何もしない」と約す行為とは、ある面でいえば、「逆説的なロジック、パトス
    的な行為」として、何分かの理由があるとは思うが、結局は「パロディー」であり、「表層的かつア
    ナーキーな発言」に他ならない。
      ご承知の通り、他の動物世界を眺めても、「何もしない」ものがリーダーや長として生き残れない
    ことは、京大霊長類グループの研究や立花隆の著書を読むまでもなく「自明」であり、そうした思
    考の体現者がヒトの歴史の中で、何らかの指導性を発揮したと聞いたこともない。
      つまり、学校という組織に属し、一定の役割を付与された生徒会組織の中で、「何もしない」と嘯
    くことが何の意味を持つのか、私には不可解であり、これと「自治問題」に対する意見が概ね一致す
    る方が他にいたので、グループとして立候補することになった。ただ、残念なことに、他のメンバ
    ーと卒業後の交流はないが、今も「精神的な同志」であったと思っている。
      もっとも、私たちの主張を声高に論じても、多数の諸氏から賛意が得られなければ、「その程度」
    のものであり、不遜ではあるが、選択したこの学校も「その程度」のものと思っていた。
    政治の世界からすれば、勝算がなければ選挙に出馬しないというのが常道だが、現実には票読み
    なんてできないわけで、「とりあえずやってみよう」ということで、立候補に踏み切ったと思う(な
    お、この辺りについては他のメンバーにも聞いてください)。
      また、当時の「争点」と称されていた「自治問題」も、彼のいう「何もしない」という主張が受
    け入れられるとすれば、「継続課題」として取り組むこともできないし、「それで結構」と考える生
    徒が多いとすれば、これまた自ら進んで物事を推し進めるだけの実行力も気概もない学校に入った
    と判断せざるを得ない。
      ただ、一方で、これも当時の時代に流れていた「気分」や「雰囲気」というものが色濃く反映し
    たものではないかと、実は冷静に見つめていたのも、正直なところである。
      思い起こすと、世間では「ノンポリ」とか「モーレツからビューティフルへ」という言葉が流行
    っていたが、これも、「エコノミック・アニマル」と海外から揶揄された高度成長期に認識されてい
    た多くの価値基準や立脚点が、大きく変換しようとしていた時代に差し掛かっていたことが起因し
    ていたのだろう。
      しかし、新生徒会が発足した後で投票結果の分析を行ったわけでもなく、「そこまでいえるのか」
    と問われると、私も返答に困る。また、「気分」や「雰囲気」という観点からすると、単に「前職者に
    飽きた」とか「新しい者に目移りした」だけだったのかも知れない。
      ただ、こうした現実は、特に優秀といわれる進学校に少なからず共通していたのではないだろう
    か。というのも、生徒会活動を担っていたとき、まったく面識のない某都立高の生徒会長から、突
    然自宅に電話が入ったことがある。その話というのは、自分の学校では「三無主義」が流れており、
    そうした現状の中でどうやって生徒会を運営していくのかについて、第2学区全体の生徒会長を集
    めて、一度皆で話し合いたいということであった。
      そのとき、何らかの意図があるのではと思ったが、反対する理由もないので、私は了解した。だ
    が、結局は、その後何の連絡もないままで終わり、自分の足元がしっかりしなければ、他校と一緒
    になって活動するだけの力はないと思ったことがある。
      さて、選挙の「争点」と称されていた「自治問題」に話を移すが、広辞苑で「自治」という言葉を
    調べると、「自分で自分のことを処置すること、自然と治まること」とある。つまり、当時の「自治
    問題」とは、予め定まった授業のカリキュラムをこなしていく形ではなく、程度の差はあれ、でき
    るだけ生徒自身で考えた内容に変えることができないかということであった。
      また、そうした纏まった意見を教員側にも伝え、話し合いたいという点も含まれていたが、他の
    立候補者の言葉を借りれば、進学校という「管理されている学校」から、できる限り生徒側の主体
    性を活かした「自由な学校」に変えたいということであった。
      私としては、これも大学紛争や一部の高校で起きていた「一連の流れの余波」として受け止め、
    頭の良い方ならそうも考えるのだろうと思っていたが、内心では、これは選挙の争点にはならない
    と考えていた。
      というのも、先ほども触れたように、「俺は何もしない」という主張が通るのならば、そうしたこ
    とに「自分は無関係」と考える生徒が多いことになるし、その点に関する様々な主張や活動を行っ
    たとしても、「無関心」で終わることになることが予想されるからである。
      もちろん、私たちはこの問題について、公約に基いて、愚直に討議を重ね、その都度論理性ある
    意見を手書きのガリ版刷りで皆さんに報告していた。
      が、義務教育ではない学校に自らの判断で入学し、その目的や意識も多々異なる集合体の中で、
    どんな問題であっても、全体で意見を纏め、全員をそこに向かわせるという行為は、実に難しくかつ
    大変なエネルギーを要するものである。もちろん、任期中にそれができなかったことについては、
    偏に私の「力不足」に原因がある。
    ただ、「自分で何かを行う」という意味も「自治」にあるわけで、実際には、学校という環境を綺
    麗にする一策として、誰からも強制されずに、自ら汗を流して花を植え続けた方がいた。また、校
    内に道路を走らせる計画があり、この道路問題に対し、実に真摯に取り組んだ方もおり、こういっ
    た活動について、私たちは「主体的に自治を実践」した。この点は、ここではっきりとお伝えして
    おきたい。
      しかし、よくよく考えると、我が校では、私たちが入学したとき、すでに「進学教育」というも
    のは行っておらず、「管理されている」という認識を持った方は少なかったのではないだろうか。逆
    に、「何もしない」という教育に不安を持った方も中にはいただろうし、一方ではそれがために、ク
    ラブ活動を含む学生生活を結構謳歌した方も多かったのではないか。
      私の周囲では、「教育」や「社会」「文化」に関わる話(もちろん「恋愛」も)が比較的多かったが、
    学外でヘルメットを被った方や校門でビラを撒いた方もいた。だが、結局は、当時の教育システム
    を「粉砕」できるだけのエネルギーを保持した者はいなかったわけで、後は各々が高校を卒業した
    後、現在に至るまで、そのとき感じたことや思ったことを、自分がどのように社会の中で行動し、
    「形」として実現してきたのかを振り返ることでしか、「答え」は見出せない。
      大学時代に、友人から高校名を聞かれて、返答に困ったことは一度もない。それだけの歴史と実
    績がある学校に在籍したことを、今も誇りに思う。だが、それも先人が作ってきたものであり、そ
    れを我々がどのように繋げてきたかもまた、問われていく。
      私自身は、勉学は平均で良いと思っていたし、クラスメイトに恵まれたこともあり、高校時代に
    嫌な思いを経験した記憶はほとんどない。それも、この学校にあった「伝統」や「気風」、そして「自
    由さ」のおかげだと思う。もちろん、先生たちのキャラクターや発言によるところもあるのだ、も
    そうした「自由さ」や「気風」を感じた方がいるのではないか。
      「創造性豊かな教育」といわれて久しいが、「創造」とは型に嵌らぬ、不安定で危険な仕事である。
    だが、官僚を多く輩出してきた学校でもなく、その点でも「自由な学校」だといえる。
    つまり、推測になるが、実は多くの方が無意識的に「自主」や「自治」を実践していたのではな
    いだろうか。となると、私たちが取り組んだ「自治問題」も、もともと継続的な「争点」となりえな
    かったのかも知れない。
      某民放テレビで放映されている夜のニュース番組のコーナーで使われている言葉の由来を調べる
    と、福澤諭吉の『文明論之概略』からの引用と分かったので、ご紹介しておこう。
    
    「単一の説を守れば、其の説の性質はたとい純精善良なるも、之に由りて決して自由の気を生ずべ
    可らず。自由の気風はただ多事争論の間に在りて存するものと知る可し。」
      この文脈を借りれば、当時のことはこの「自由の気風」が齎したものであるともいえ、今も表現
    は異なれど、談論風発の議論を期待しながら蠢いている。しかし、それを虚しいと感じるときもあ
    り、「齢を重ねるということはそういうことか」と自分で嘯くときがある。
      「大人になるとはどういうことか」「人が円くなるとはどういうことか」と常々思っていたが、よ
    うやく「それも自然の理による」ものと気づき始めた。もっとも、それが遅かったのか早かったの
    か分からない。50歳になろうとしている今でも分からないのだから、多分一生分からないのかも
    知れない。
      最近の新聞では、「人生90年時代」といわれるほどの超高齢化社会に突入したとあるが、これは
    「長い老後」というテーマにどのように向き合っていくのかという未知なる宿題を、私たちに投げ
    かけている。
      さしずめ、後少しで「50歳」に達するが、織田信長が好んで謡い、かつ舞った能「敦盛」では、
    「人間50年 下天の中をくらぶれば夢幻のごとくなり」とある。また、孔子によれば、「50にし
    て天命を知る」とし、50歳を「知命」と呼ぶ。
      仮に、後40年も生きるとすれば、一体何をテーマとして生きていくのかを真剣に考えなければ
    ならず、なかなか楽にさせてもらえない。
      人生論を語るには若すぎるが、人生とは自分だけで完結できるものではなく、常に周囲との関係で
    生まれるものである。
      私としては、終生変わらずに抱きつづける「志の高さ」と、また、「弾んだ会話ができる相手」に
    恵まれることが、自分の生き様を決めることになると思っているが、多くを語らずとも理解し合い、
    理想や思考を共有できる友は決して多くないというのも、現実である。かつて上司に、「どれだけの
    友を持つことができたかで、人生の勝ち負けが決まる」といわれたことを思い出した。
    
      最後に、本稿を書くために、久々に図書館に行って当時の出来事などを調べたが、皆さんも「そ
    のとき何を思い、何をしていたのか」、一度思い返してみてください。
    1970(昭和45)年 [高校1年]
              大阪万博、ウーマンリブ、三島由紀夫切腹事件、よど号ハイジャック事件、
              ケンタッキー・フライドチキン第1号店オープン
              塩月弥栄子『冠婚葬祭入門』、曽野綾子『誰のために愛するか』、藤圭子『圭子の夢は夜開く』、
              日吉ミミ『男と女のお話』 「oh!モーレツ」「ほこてん」「スキンシップ」
    1971(昭和46)年 [高校2年]
              ドルショック、アンノン族、マクドナルド第1号店オープン、ザ・タイガース解散、
              カップヌードル発売、「日活ロマンポルノ」
         T・ベンダサン『日本人とユダヤ人』、山岡荘八『春の坂道』、小柳ルミ子「私の城下町」、
              尾崎紀世彦『また逢う日まで』 (「三人娘」とは?)「シラケ」「フィーリング」
              「のんびりゆこうよ」
    1972(昭和47)年 [高校3年]
         あさま山荘事件、ニクソン訪中、川端康成自殺、ウォーターゲート事件
         有吉佐和子『恍惚の人』、田中角栄『日本列島改造論』、山本リンダ『どうにもとまらない』、
              森昌子『せんせい』 (翌年の「花の中3トリオ」とは?) 「ヘンシーン」「ワーカーホリック」
              「あっしには関わりのねえことでごさんす」
    以  上