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会長だったっけ? 生徒会のことと忘恩の日々

F組 三木 悟
( 昭和46年度後期会長 )

    1. 生徒会について書けということだが、情け無いことに、もうほとんど覚えていない。いかに
    不真面目だったかが露呈したわけだが、朧気な記憶をたどりながら、思い出すことをぽつぽつと拾
    ってみようと思う。
     はて?私が生徒会長になったのは、いったい何年生の何時だったか?そんなことさえも覚えてい
    ないのだ。確か私の前の会長が、同じクラスの加藤志貴雄君だったはずだ。一年の前期と後期に別
    れて、任期は半年づつだったか?とすると、2年生の時の、前期会長が加藤君で、後期会長が私だ
    ったのではないか?
     会長だった頃に、下駄履きに風呂敷づつみをかかえて学校に通った記憶がある。あれは2年生の
    終わり頃だったか。それとも3年生になっていたのか。
     25周年に配られた『新25回生卒業25周年記念誌』に、当時の「朝陽時報」の記事が載って
    いる。それを読んで、ああそうだったかと思う。ちょうど会長選挙の記事なので、引用させてもら
    おう。
      <問題提起した会長選>_____生徒会波乱のきざし
      「後期生徒会新総務の各役員は、十一月六日、決定された。会員の定義をめぐってもめていた
    会長の座も、結局、全校生徒の投票によって、再選挙にもちこみ三木君(二F)に決定された。
    こうして成立した新総務だが、その方針は、各人によって異なり、新総務の前途は波乱に満ち
    たものになりそうである。」
    
     これを書いたのはC組の斉藤成君だろう。当時斉藤君に取材された記憶が蘇ってきた。そしてこ
    の記事を読んだとき、大人の新聞記者が書いたみたいだなと思ったことも思い出した。よく言えば
    「鋭い眼の持主だな」、悪くいえば「厭味なつっこみをする奴っちゃな」。…新聞研究部員だった斉
    藤君が後に新聞記者の道を選んでいたとしたら、きっと有能な記者になっているに違いない。
     
     記事によれば、選挙管理委員に投票権があるかないかで、一度行われた選挙が無効になり、「投票
    権あり」と認めた生徒大会の議決の後に再選挙が行われたという。それによって、始めの選挙で当
    選した2Aの上甲君が落選し、再度の選挙で当選した私が会長になったという。
    (副会長に前期からの再選でD組の本田真也君、書記長に同じF組の吉村仁君がなっている。)
    
      言われてみればそうだった。上甲君にはもうしわけなかったと今さらながら思う。
     そんな経緯で会長になりながら、何をしたのかというと、ほとんど何もしていない。ただ何かを
    訴えたかった、ということだけは本当だったのだと思う。当時よく言われた言葉に三無主義という
    のがあった。無気力・無関心、それからもう一つは無責任だったか。憶いだすのは、僕たちの入学
    式の情景だ。校庭に全校生徒が集まり、挨拶をする校長の周囲でヘルメットをかぶったお兄さんた
    ちがハンドマイクで何かをがなりたてていた(喋っていた。訴えていた)。ああ、これが高校かと感
    嘆したものだ。そういう雰囲気が、火の消えたあとの煙のように残っていた時代だ。
    
     僕たちの入学は1970年だった。その前年、前々年から大学紛争と言われる時代の大きな波が
    立ち起こって、東大安田講堂の攻防を頂点に砕けていった。1969年、青山高校のバリストをき
    っかけに高校にも紛争は飛火し、十一月にはわが新宿高校でも、校長室突入・ハンガーストライキ
    という四週間の紛争が起こった。
     学園闘争の終息とともに何をしても無駄だという無力感がひろがった。一方で、まだ消え残る小
    さな火がチロチロといき場をもとめていた。授業をサボって新宿御苑で寝ころんでいるときには、
    不思議な幸福感と寂しさとを感じたものだ。あの御苑と校庭との境にあった塀の穴。あの穴をくぐ
    り抜けて学校をぬけだしたことのある諸君も、たくさんいるはずだ。
     中学時代の三年間を通じて、ほとんど女子とは話をしたことのない僕は、高校にはいっても同じ
    ような生徒だった。成績でも行動でもとくに目立たず、女子とは相変わらずほとんど話をすること
    もない僕が突然生徒会長に立候補したのだから、みな意外に思ったのではないか。ホームルームの
    時間だったか、授業の合間の休み時間だったか、候補者を紹介する校内放送を聞きながら、クラス
    の女子が応援してくれている雰囲気が伝わった。あれは僕が高校生活の中でほとんど始めて味わう、
    クラスの女子との暖かい交流の記憶だ。
     ホームルームというものがあった。いろいろな議論を交わした。誰がどういうことを言っていた
    か。おぼろげに蘇ってくる情景もある。
     授業をサボったり、雀荘にしけこんだり、喫茶店やパチンコで時間をつぶしたり、僕たちも迷っ
    ていたが、先生たちも模索していた。僕たちの時からはじめて複数担任制が導入され、一クラスに
    二人の担任がつくようになった。
     評価のあり方を問題にしたり、学力テストのあり方を問題にしたり、生徒大会も開いた覚えがあ
    る。何をどう変えたか、何がどう変わったか、ということは何もない。できるはずもなかったろう。
     『新25回生卒業25周年記念誌』に、鈴木裕太君が前中先生の思い出を書いてくれている。僕
    は一年のときC組で、前中さんが主担任だった。美術部でもあった(山岳部とかけもちしてた)の
    で吉江先生の部屋に出入りさせてもらっていたが、吉江先生をはじめとして、前中先生や豊沢先生、
    剣道(体育)の岡村先生、そういった吉江部屋の常連にずいぶんお世話になった。時には内緒で、
    「お前たちに飲ませるのはもったいない」といいながら、ジョニーウォーカーのレッドをご馳走し
    てもらったこともある。そういう人間の味に渇いていた。裕太君がよく書いてくれているので付け
    足さないが、僕にも前中さん(あえて前中さんと呼びたい)の人間臭さを忘れることのできない、
    特別の思い出がある。
    
    2. 卒業の際、ぼくは大学を受験しなかった。受験勉強のかわりに描いていた漫画がある雑誌の
    賞に入選して始めて自分の力でお金を稼いだ。だが漫画の世界にも行き詰まりを感じて、小説を書
    きはじめた。四年かけて二千枚ちかいものを書いた。はじめにつけた題は『灰スクール』という。
    僕たちが入学する前の年におこった、校長室突入事件をひとつの素材にしている。そのために、僕
    たちには渡されなかった前年度(昭和四十四年度)の『轍』(たしか生徒会の機関紙のようなもの)
    を調べた。もう無くなっていると思っていたが、古い書類を整理してみたらその時のコピーがまだ
    残っていた。今、それが手元にある。『特集・昭和44年度紛争』とある。
     このCDは記憶容量が大きいからなんでも載せると幹事の渡辺君が言っているので、記録の意味
    もこめて、その一部を記しておこう。
     経過
     十一月 五日  全学共闘会議の六項目要求と校長室乱入。
         六日  二年遠足中止と一年遠足。
         七日  全学集会。学校側第一次回答。
        一〇日  学校側第二次回答。
             三年に授業再開のきざし。
        十二日  全学集会
             学校側「政治活動を禁止しない」と言明。
             全共闘三名と有志一名ハンスト決行。
        十三日  ハンスト ドクターストップで一人離脱。
        十四日  ハンスト中止要求の全学集会。
        十五日  ハンストにドクターストップ。
             全共闘、人を交代してハンスト続行。
             ハンスト中止要求の全学集会。
        十七日  学校側第三次回答。
             全共闘ハンスト中止。
      以後、一年と二年の中に授業再開のきざしが見え、次々と授業再開をしていった。     
    
     ここに出てくる六項目要求の中に、「評価を前提とした一切の試験の廃止」「特別考査の廃止」が
    ある。この要求にしたがって「一切の試験」は廃止されなかったが、「特別考査」は廃止された。
     「僕らは何故この要求書を出すのか?何故このような要求をするのか?まず僕らが生活している
    この学校の現状に目をむけようではないか。斜陽の名門校と言われる新宿高校。しかしこの名門校
    とはどういう意味だろうか。東大に百人以上も入学した受験校という名誉がそれなのだ。しかしそ
    の内実はというと人間性を見失った人間の集団ではないか!教育の結果がそんなものなのか!何故
    そんなことになったのか!このような問いかけから出発して我々はここに6項目の要求を学校側に
    提出する。」
     という言葉で、「新宿高校全学共闘会議・全日制闘争委員会」の名で出された6項目要求は始まる。
     無理な要求も、的をはずれた言動もあったにちがいない。が、そこにはやはり叫びがあった。校
    長室突入組のひとりに坂本龍一氏もいたという。それは前中さんから聞いた。
     僕自身は、大学にもいかず就職もせず、今でいうフリーター、プータローの生活をしながら小説
    を書いていた。その頃、岡村先生と手紙のやりとりがあった。先生は「何もしないでいる五年と考
    えつづけている五年とでは、五年たったときに違うのだ」といって励ましてくださった。こういう
    先生方のお心に触れることがなかったなら、ぼくが危うい青春時代をのりきることはできなかった
    に違いない。吉江先生、前中先生、岡村先生、豊沢先生……ぼくが新宿高校でいただいたものは、
    何よりも、そうした先生方との出遇いだったと思う。いたずらに忘恩の日々を重ねてしまい、慚愧
    の念いがある。この場をお借りして深くお礼を申し上げたい。
     四年の歳月をかけて脱稿した小説を、ある作家に送りつけた。自費出版したいと言ったら、「その
    必要はない」という返事が返ってきた。あまりにも未熟すぎる。だがその人に拾われた。そうでな
    ければ、たぶん立ち上がれていなかった。思えば多くの人に救っていただいている、我が身なのだ。
     それから、ぼくはインドに放浪の旅に出かけ、帰ってきてお坊さんになった。
     あいも変わらず、忘恩の暮らしを重ねている。いったいどうしたらいただいたご恩をお返しする
    ことができるのか、そういうことを、すこしは真面目に考えなさい。といって、目に見えないどな
    たかが、呼びかけてくださっているのだろう。